色々考えすぎる性分なので

様々なコンテンツに触れても、色々考えすぎてしまう。性分だから仕方ない。

【プロセカ】2回目神代類バナーイベント(リバイバル マイ ドリーム)の意図がよく分からなかった件

この記事を読むにあたって

タイトルにある神代類とは、プロジェクトセカイ(通称「プロセカ」)に登場するキャラクターだ。

プロジェクトセカイ(通称「プロセカ」)とは、セガとカラフルパレットによるボカロ・初音ミクと中心としたメディアミックスプロジェクトなのだが、そのプロジェクトの中心に位置するiOS及びAndroid用ゲームアプリ「プロジェクトセカイ カラフルステージ!feat.初音ミク」も同通称で親しまれており、タイトルにあるプロセカはゲームアプリの「プロセカ」である。

 

この記事の意図

2回目神代類バナーイベント(以下「当該イベ」)」の意図が、私にはよく分からなかった。

この記事は、何故私には理解できなかったのかを整理・分析し、宛てのない感情を書き綴るものであり、当該イベを楽しんでいる方々を糾弾するものではない。また、特段の記載がない限り、下記はすべて私個人の見解であることをご理解いただきたい。

 

当該イベについて

当該イベのストーリーの大まかな流れは以下の通りだ。

神代類は天才的な頭脳と、面白いショーをするためなら何でもする(ただし安全管理はしっかりしている)という価値観のため、幼少期より周りから理解されることは難しかった。

しかし、面白いショーをすることに対して本気で挑むワンダーランズ×ショウタイム(以下「ワンダショ」)の他3人との交流を経て、理解されず孤独だった過去を克服し、類が思い描いた演出は100%実現し、ショーは大成功をおさめる。

……このストーリーの流れ、3回目では?

大まかな流れだけで言えば、こういったストーリーはもう3回目*1なのだ。類は過去に、所謂トラウマがある。それを今の仲間(ワンダショ)の存在により克服して、大成功。何ならウエディングイベ(純白の貴方へ、誓いの歌を!)の際には、ワンダショ以外のキャラとも交流している。

正直私は、ウエディングイベと天馬司バナーイベント(ワンダーマジカルショウタイム!)で、類はトラウマを完全克服したのだと思っていた。

だがしかし、3回も繰り返すなら、何か意図が、何か描きたいものがあるのだろうと思い、色々と考えてみてしまった。

ちなみに…

暁山瑞希のイベントストーリーについても、同じよう流れが何回か繰り返されているが、これは思い出・約束・友達に対してトラウマを持つ瑞希に対し、思い出が蓄積されることによって何か描こうとしているのだろうと予測しているので、今のところ違和感は持っていない。

 

当該イベは何を描きたかったのか?

類の幼少期を描くこと?

当該イベが今までのイベントと大きく違う点が1つある。それは今まで漠然としか語られてこなかった類の幼少期のエピソードが、立ち絵・シナリオ付きで、明確に語られたことだ。

当該イベの告知も幼少期類のイラストだったし、類の幼少期を描くこと自体が意図だったのかも知れない。

今回語られた、類の幼少期の詳細は以下の通りだ。

天才的な頭脳を持つ類(蛾を捕まえて複眼を観察し、その仕組みを完全理解・説明する。年齢以上の頭脳を持ってロボコンで優勝する等)は、クラスメイトから理解されない孤独な小学生時代を過ごす。しかし、彼の両親が研究職だったこともあり、「人は人、自分は自分」という価値観で、自身の個性を曲げるようなことは無かった。

そんな折、隣の家に草薙寧々の家族が引っ越してくる。寧々は人見知りで、類と寧々はなかなか仲良くなれなかった。

しばらくして、神代家と草薙家で、人魚姫のショーを観に行くことになった。

その人魚姫のショーは大変すばらしいもので、このショーの話題や人魚姫ごっこで、類と寧々は仲良くなる。ちなみに、人魚姫ごっこというのは、季節外れ(類の母親のリアクションを見るに冬ではないと思われる)にビニールプールを持ち出し、水浸しになりながら歌うというものだ。

ショーを通して、類と寧々は仲良くなることができた。だったら、ショーを通してなら、クラスメイトとも仲良くなれるかもしれない。

そう考えた類は、「人は人、自分は自分」という価値観を改め、垣根を越えようと、その考えに沿ったごっこ遊びと演出を考える。

詳細は省略するが、その演出というのは教室の窓から、教室の外にある木の枝に飛び移つるというものだった。

下にマットも敷いてあるし、窓と枝の距離も大したものでは無いと主張する類に、クラスで一番運動神経の良い子が、自分がやると名乗り出る。しかし、いざとなると尻込みし、飛び移ることができない。そこで類は、窓から飛び降りて見せて、マットは安全なものだ、落ちても大丈夫だと証明して見せる。

しかし、ごっこ遊びで窓から飛び降りて見せた類に、クラスメイトは引いてしまい、結局類とクラスメイトは垣根を越えることが出来なかったのだった。

……いや、「季節外れに水浸しになること」と「2・3階の窓からジャンプすること」は、難易度が全然違うのでは?

クラスの子たちも、水を使って本格的な人魚姫ごっこをしよう!という誘いであれば困惑しなかったのではないだろうか。

正直、類の言い分を一度は聞き入れ、しかし高さから尻込みしてしまっただけの、運動神経の良いクラスの子が可哀想に思えてしまった。

当時は小学生だったから視野が狭いのは仕方がないと思うが、高校生になってもこのエピソードに当時と同様の感想を持っているのは……どうなのだろう。

「今となっては自分が無理を言っていたと思う。でも当時は本当に悲しかった」とか台詞一つ入れてくれれば、印象も違った。もしくは、上記を中学生時代の演劇部のエピソードにするか(類の中学生時代の部活動については不明だが)。部活であれば、無茶な演出を断られた件についても、「自分だけが本気だったという孤独」として体裁が整ったと思う。

 

寧々の成長を描くこと?

寧々のカードストーリーの概要が、以下の通りだった。

※ネタバレ注意

当該イベの後のこと、類がいつも通り、司に無茶に聞こえる演出を提案する。そんな類と司のやり取りを見て、寧々は「自分もやってみようかな」と言う。

ここまで読んだときは、これが当該イベの意図かと思った。なるほど、類がトラウマを完全克服したことを寧々に見せることによって、寧々がステップアップするという意図なのかと。

しかし、その後の寧々の台詞がこうだ。

「無理にアクロバットができるようになろうとは思ってないけど、…」

……志が低くないか?

寧々は世界で活躍する舞台女優になることが夢で、その夢が本気であることを前回のイベントで表現していた。目指しているのがオペラ歌手であれば、言い分は分かる。しかし、世界で活躍する舞台女優を目指すのであれば、ステージに関することであれば何でもやれるだけやらないと、難しいのではないか。

恐らく、「怪我のない範囲で」という意図だったのだろうと予測している。寧々はこの台詞の周辺で、「できないとやらないのは違う」等チャレンジ精神を口にしている。だからこのたった一言が、足を引っ張ってるように思えて仕方がない。

「舞台女優」を目指しているのに「アクロバットをできるようになろうとは思わない」という発言に、私は大きな成長を感じることは出来なかった。無理のない範囲のアクロバットなら、デフォルトでやっていて欲しかった。やっていると思っていた。

私が寧々ちゃんに夢を見過ぎているのかも知れないが……。

 

当該イベの良かった点

とはいえ、当該イベは意図が分からなかっただけで、イジリ(イジメ)描写もなく、良い点もたくさんあった。

今までスポットを当てて来られなかった類とえむのエピソード。マイペースで常識外れな二人の交流は、大変微笑ましかった。

(これは寧々のカードストのネタバレになるが…)えむの家に遊びに行く寧々のエピソード。「こういうのが見たかった」が詰まりに詰まった大変良いストーリーだった。

天馬司のカードストーリーは、終始ほのぼのとしていて、大変笑わせてもらった。

 

まとめ

こうして書き綴ると、当該イベの良かった点は、ワンダショの日常だ。

当該イベは、特段大きなステップアップを描くものではなく、ワンダショの日常を描くことが主要な意図だったのかも知れない。

もしかして……私が2回目類バナーイベントに期待し過ぎただけなのでは……?

 

*1:過去の2回は、1回目類バナーイベント(全力!ワンダーハロウィン!)とウエディングイベ(純白の貴方へ、誓いの歌を!)を換算している。

【プロセカ】天馬司に対するイジリ表現が苦手 ~イジリかイジメか、ギャグなのか。個人的な分析~

 

 

この記事を読むにあたって

タイトルにある天馬司とは、プロジェクトセカイ(通称「プロセカ」)に登場するキャラクターだ。

プロジェクトセカイ(通称「プロセカ」)とは、セガとカラフルパレットによるボカロ・初音ミクと中心としたメディアミックスプロジェクトなのだが、そのプロジェクトの中心に位置するiOS及びAndroid用ゲームアプリ「プロジェクトセカイ カラフルステージ!feat.初音ミク」も同通称で親しまれており、タイトルにあるプロセカはゲームアプリの「プロセカ」である。

その他、プロセカ内のユニットやキャラクター名については注釈なく書かせていただくが、ご容赦いただきたい。プロセカに馴染みがなく、この記事に興味を持って下さった方は、プロセカの公式サイトをご参照ください。

 

この記事の意図

こういった記事を書くと、「運営に直接言うべき」という指摘があると思う。先に伝えておくと、私はタイトルについて、運営に要望として送った。しかし一度問い合わせたことがある方なら分かると思うが、問い合わせ文章は260字以内なのだ(窓口業務の大変さを考えると、この字数に不満は一切無い)。イジリ表現を苦手に思う人間が居ること、その理由は掻い摘んで伝えたが、書き切れなかった部分が多々あった。

この記事は、何故私が作中のイジリ表現を苦手に思うのかを整理・分析し、宛てのない感情を書き綴るものであり、プロセカ作中表現を楽しんでいる方々を糾弾するものではない。また、特段の記載がない限り、下記はすべて私個人の見解であることをご理解いただきたい。

 

プロセカ内のイジリ表現について

2021年9月30日、プロセカがめでたくリリース一周年を迎え、ゲーム内にて一周年記念ライブが行われた。そのライブ内MCにて、天馬司の発言が悉く所属ユニット・ワンダーランズ×ショウタイム(通称「ワンダショ」)の他3人のキャラクターに遮られるという表現があった。これだけ読むと「イジリ表現とは大げさな」と思われるかも知れないが、作中には列記するのが大変なほど天馬司へのイジリ表現が多々あり、それが一周年記念ライブという祝いの席でもギャグとして行われたということを念頭に置いていただきたい。

 

そもそもイジリ表現とは

イジリ表現とは、一歩間違えればイジメに成り変わり、ギャグとして扱うには難しい表現だ。そんな中、私個人は①イジメかイジリか②ギャグとして成り立っているかは、基本的には下記のボーダーラインで判別している。

①イジメかイジリか

イジる側とイジられる側のパワーバランスが、イコールであること。これがイジリかイジメかの大前提のボーダーラインだと考える。

ちなみに…

調べたところ、文化省はイジメの定義を「一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」としているので、例えパワーバランスがイコールであろうとイジられる側が苦痛に感じていたらイジメとなるので、三次元を生きる私たちは肝に銘じておくべきだろう。

②ギャグとして成り立っているか

イジられる側も”心から”楽しんでいるか。これがギャグになる分かりやすいボーダーラインだと考える。この”心から”というのが重要で、ノリが悪いと思われたくない等と考え笑って見せるのは、誰かを犠牲にした笑いなので、ギャグとして成立しているかどうかの判別が難しくなる。

 

プロセカ作中の表現はどうだったか?

上記を前提に、プロセカ作中の表現はどうだったのか。一周年記念ライブのワンダショMCを例に挙げて分析したい。

①イジメかイジリか

3人で1人の発言を遮る。MC内の力関係が、3対1となっている。天馬司がワンダショの座長であることを差し引いても、パワーバランスがイコールとは言い難い。

天馬司が座長ではあるが、ワンダショの力関係は分散しており、4人はほぼ平等な立場なのだ(そこがワンダショの魅力でもある)。天馬司は「座長(+脚本家?)」、鳳えむは「雇用主(の妹)」、草薙寧々は「歌姫」、神代類は「演出家」とそれぞれが何かしらの強い発言権を持っており、3対1のパワーバランスを覆せるほど天馬司に権力は集中していないと思う。

ちなみに、そもそもだが天馬司は作中屈指のイジられキャラだ。天馬司と他3人との、1対1の会話は例え天馬司がイジられていたとしても微笑ましく思う。鳳えむとの会話は彼女の無邪気さがよく分かるし、草薙寧々との会話には彼女が素直にはなれないものの天馬司に心を許していることが分かる。神代類との会話には、彼のマイペースさがよく表現されていると思う。

3人それぞれは、とても微笑ましいのだ。しかし、ワンダショ4人が揃うと、この3人が天馬司がイジられキャラなのを良いことに徒党を組む。私はこれを、決して微笑ましいとは思えない。

②ギャグとして成り立っているか

さらに問題なのは、天馬司はMC内の件の流れを、楽しんでは居ないのだ。天馬司はイジられキャラではあるが、自分から望んでそのポジションに居るのではない。MC内でも呆れ、怒っており、3人にそのような扱いを受けることを不服に思っている様子だ。一人に犠牲にして成り立つギャグが、ギャグとして成立しているのか。私はこういった表現を笑うことができない。

 

その他

この段落は細々とした内容となる。タイトルに付属する主だった内容は上段までで綴り終わっているので、読み飛ばしていただいて大丈夫だ。

①天馬司のキャラ造形

天馬司のキャラクター性の中に、「イジられキャラ」「これで本人は真面目のつもり」という点があると思う。例えば、どんなに良いことを言っていたとしても、人混みやステージ横で大声を出せば、注意を受ける。本人が悲劇として書いた脚本がどう読んでも喜劇で、クラスが笑いに包まれる(これも脚本を楽しんでいただけで、決して天馬司を揶揄った笑いではなかった)。こういった表現は良い。天馬司側に明らかにツッコミどころがあり、それに周りが正しいリアクションをしているだけだ。

しかしワンダショ4人が揃うと、特に意味もなく天馬司がイジられるときがある。一周年記念ライブのMCでも、天馬司は大真面目に次回ステージのモチーフ等を口に出そうとしただけで、そこを揶揄される理由は一切無い。

②ワンダショ推しとして

突然だが、可哀想は可愛い。だから私が天馬司単推しであれば、他3人はそういうキャラクターなのだと納得して、訳もなくイジられる天馬司を愛でることもできた。

しかし私は、ワンダショ箱推しだ。

鳳えむは作中で、皆が笑顔のステージを続けるために、泣きそうになるほど精神的に追い詰められたことがあった。そんなとき、天馬司は「皆にはえむも入っている。えむも笑顔でなければ意味がない」といった言い分で励ました。そんな励ましを受けたえむが、ステージ上で、天馬司一人を犠牲にする笑いを良しとするのか。

草薙寧々はあえて簡単に標記すればツンデレキャラで、毒舌だが根は優しい。天馬司には特に毒舌を披露するも、本当は彼を信頼し、感謝している様子が見て取れる。さらに彼女は極度の人見知りな一面もある。そんな彼女が他3人と一緒に天馬司1人を揶揄してしまうと、彼女の可愛さが損なわれるように思う。人見知りなのに、心を許した相手には毒舌。ここまでなら可愛い。しかしここに、「周りに仲間が居るとさらに嬉々として相手を揶揄する」が追加されると、私は一概に可愛いとは言えなくなってしまう。

神代類はそもそも、天馬司に対しては遠慮のないキャラクターだ。しかしそれは最高のショーをするため、天馬司を未来のスターとして信用しているためだ。だが今回のMCは、最高のショーとは関係ない。天馬司がイジられキャラだがら3人でイジった、としか私には思えなかった。もしかしたら神代類は最高のショーのために今回のようなMCをしたのであって、私とはギャグセンスが合わないだけかも知れない。とは言え(えむと一緒にはなるが)、神代類は天馬司一人を犠牲にする笑いを良しとしているのか。

ワンダショ推しだから、色々と考えてしまう。えむも寧々も類も、優しくて良い子だと思っているから、私は彼らがイジリ表現を行うことが苦手だ。

③もしかして積み重なるイジリ表現もフラグなのでは?

私はイジリ表現以外は、プロセカ運営のことは信頼している。また、イジられたとき、天馬司が「お前らいつかオレに感謝するときが来るからな」と口にすることがある。だから、もしかしてイジリ表現もフラグなのでは。意図して描いているのでは。そう考えようとしたこともあった。天馬司が何かしらの理由でステージに立てなくなり、今まで散々イジってきた天馬司に他3人が感謝するという流れだ。

しかしそうなると、今までのイジリ表現において、運営は3人を加害者として認識して描いていたということになってしまう。

ワンダショメインストーリーで、天馬司が加害者として描かれたことがある。寧々を糾弾し、類には見放された。しかしあれは天馬司なりの理由があった怒りであり、後に寧々・類とも和解をしている。さらに言えば、メインストーリーという一本の流れの中で解決しているのだ。

積み重なるイジリ表現をフラグとするには、フラグ回収まで長すぎないか?それまでずっとえむ・寧々・類は加害者なのか?特に理由も見受けられないのに?

それならば、プロセカ運営は無邪気にイジリ表現をギャグとして扱っていると理解した方が、私の精神衛生には良いと判断した。

④でも「でん〇ゃらすじーさん」は面白いんだよなぁ…

一人を面白キャラとして、その一人が毎回とんでもない目にあうというギャグマンガはよくある。天馬司はこのポジションなのかと考え、納得しようとしたこともあった。

しかしこういったギャグマンガをギャグとして割り切るには、キャラのデフォルメ化、もしくは人外化が必要不可欠だと思う。苦痛が非日常化され、作者がどこを笑いどころとして描いているか、視覚的にも分かりやすい。

イジられたとき、天馬司が往年のコロコロコミックのようにデフォルメ化し、人差し指を天に上げて「コラーーーッ!!」とツッコんでいたら、ギャグとして分かりやすく、もしかしたら私も笑えたかも知れない。

とはいえ、プロセカは等身大のLive2Dと3Dで運営されているので、たられば妄想しても仕方ない。

 

まとめ

何とここまでで4,000字超えである。プロセカ運営が問い合わせ字数を260字に制限したのは大正解だ。

とはいえ、まとめとしては至ってシンプルである。

以上により私は、プロセカ作中の天馬司に対するイジリ表現が、苦手だ。